御蔵島へ再び

高校一年生の時に初めて行った船酔いのあまりの苦しみからこんなところ二度と来るものかと思った御蔵島でしたが、数年後農大の入学式を控えた3月末、再びこの島を訪れることになりました。この時のメンバーは小学生時代からの幼なじみの友人、池田君、角岡君、私の3人です。

東京から出る大型船で三宅島まで行き、港近く(三池)にある民宿に一泊しました。それは前日に東京を出港した貨物船、弥栄丸(250t)が三宅島に寄港するのを待つためです。翌早朝、阿古の港に入港するとの情報で慌てて朝飯をかき込むとすぐに○○km離れたところにある阿古の港へ急ぎました。当時の島は風向きにより入港する港が異なるため、島の人でも直前にならなければどこの港に入るのかわからないのです。弥栄丸が島を出て約一時間、御蔵島港の沖合に到着しました。以前来たときから数年経過したため、防波堤の長さはかなり伸び40~50m?くらいの長さになっていました。人は島から出たはしけ(小船)に乗り換え、防波堤のわきで待機し、波の上下に合わせて大波で船が高い位置にきた時に防波堤に飛び移ります。この時の高低差はゆうに3m以上あり、もし海へ落ちれば一巻の終わり。まさに命がけです。こうして島へ着いた私たちを、役場の一人は疑うような目で見て「あんたたち何をしにきたのか」と言ったのです。それはいいとして、こうして島へ着いた私たちは港の急坂を登り、以前泊まった御蔵旅館へ向かいました。宿へ着くとすぐ庭に植えてあったエビネが全てなくなっていることに気がつきました。宿のおばちゃんの話では「最近、役場の人が全部持って行った」とのことでした。この頃にはエビネ人気が始まったため役場が集めて取り扱うようになったようです。なるほどこの時下船時の言葉が理解できました。

〜ヒッピーに会いに時計回りで南郷へ〜

この頃も相変わらず島民の数は200人未満と少数ですが、以前とは違いだいぶにぎやかでした。それというのも学生運動などで一般社会になじむことが出来なかった若おじさん達が昼間土方として働き、夜になると毎日のように酒盛りをしていたからです。また、これとは別に最近島の南部に自給自足をするという数人の若者が住み始めたとのこと。ちなみに島民たちはこの人たちの事をヒッピーと呼んでいました。私は植物を探す傍ら、この人たちを見てみたいと思い、以前歩いたコースではなく時計回りで南郷を目指し、ヒッピーとやらを見に行きました。

南郷へ向かう途中 (火力発電所の少し手前)

南郷までは徒歩で約4時間、宿を出てしばらくの間は舗装はされていないものの、綺麗に整備された広い道が続いていました。島の人が言うには、最近完成した火力発電所のために作られた道だそうです。このあたりには何故かオオミズナギドリがやたらと多くいて、彼らの巣穴なのか?あたりは穴ぼこだらけです。私たちは彼らを捕まえたりしてしばらく遊んだ後、再び南郷を目指してグチャグチャにぬかるんだ山道を進みました。途中、何カ所かの谷間をのぞくと、ところどころにエビネの姿が見られました。

宿を出てから4〜5時間のところまで来ると前方、左下の方に青いトタンの小屋が見えました。その近くには畑もあり、ナッパのようなものも植えてありました。近くまで行くと私たちの気配に気付いたのか数人の若者達が駆け寄ってきました。その姿はどう見てもヒッピーという言葉からは想像もできないごく普通の若者だったのです。 ちなみにこの時から15年が経過した頃、人からきいた話ではこのヒッピーのうちの一人が福島県でエビネとウチョウランで大成功し巨万の富を築いたそうです。当時は有名だったあの人です。

翌日は、近づく低気圧のためか、白波もたつようになり、今までよりも海は荒れてきました。宿の人の話では、今日の船に乗らなければおそらく一週間は帰れない!それはまずい。ということで、あわてて荷物をまとめ三宅島まで戻ることにしました。この船はちょうどNHKのカメラが隣の三宅島の高校へ入学するため涙を流してお別れする少女の撮影をしていました。私ももしあの船に乗らなかったら農大の入学式に出席できなかったと思います。そうであれば植物好きの仲間達にも出会えなかったかもしれません。それというのも、今でもたまに連絡をとりあっている仲間達のほとんどが入学式の時に出会い、意気投合した連中だからです。


初めての御蔵島

コラム筆者:山本裕之

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