園芸のお話 [2]

造花に負けたか? 生きた植物

 私はホームセンターなどで花売り場をのぞくことが良くあるのですが、そこで思わず耳を疑うような(信じられないような)言葉を何度も聞いたことがあります。

 2012年、千葉県のとある外資系の家具屋さんでの、観葉植物を手にした若い夫婦の会話…

 妻「パパ、それ本物でしょう?いらないわ!」
 夫「なんで?」
 妻「だって水やるの面倒だから」

 2014年、ホームセンターの花売り場で、鉢植えの観葉植物を見ていた20代の男性友達同士の会話…

 男性「これ、本物?」

 私が横から本物だと教えると…

 男性「本物ならいらない、面倒見るの嫌だから、造花の方がいい!」

 話によると、引越しをしたばかりで、部屋に何かひとつくらいインテリア的なものを置きたいということでした。

 2016年、近くのガーデニングセンターで、多肉植物を見ていた若いカップル(新婚さん?)の会話…

 男性「最近これ流行っているらしいよ!」
 女性「ふん、そうなの」
 男性「水やり、楽らしいよ」
 女性「でも多分枯らすと思うから、こっちの枯れないやつにする」(造花の多肉植物を見て)

 それにしても生きた植物が造花に負けてしまうとは、多くの人たちは植物も変化する生き物ではなく、単なる“置き物”としてとらえているようです。実に寂しく、とても残念なことです。

 確かに最近の造花は本物と見分けるのが難しいくらいに精巧に作られているものも事実ですが、植物らしきものがあれば良いという単に合理性?だけを求めた結果なのでしょうか。

 私の感覚では、造花と生きた植物はまったく別のものとしてとらえていたのですが、この方たちにとっては造花も生きた植物も同じ土俵の上にある同列のものとしてなのか、どちらにしようかということだったのです。

 造花には作り手の心のこもった素晴らしい作品もたくさんあり、一概には言えませんが、求める側の利用法、飾りたい場所や雰囲気など、イメージから造花の方が良いということもあると思います。

 造花と生花をまったく別のものとして用途を考え、どちらにするのか?と比較される対象であるならわかるのですが、同じ土俵の上にあるものとして比較の対象にされるとは、浅はかな私が理解するのは難しいことです。

 ではどうしてこのようなことになってしまったのかを私なりに考えてみました。前にも記した通り、最近の造花の出来が素晴らしく本物と区別が難しい、ややもすれば傷みやキズがなく、本物以上に整っていること。

 それとは反対に、生きた植物は生産者や流通または販売側の都合なのか、規格化が著しく進み、大量生産物となり、限りなく造花に近づいてしまいました。同時に造花に負けないだけのこころを惹きつける要素を組み込むこともしなかったため、生き物が持つ特有の魅力を失ってしまいました。

 さらに言えば、成長する過程で自然と接する機会が少なかった都会育ちの人たちにとっては、生きた植物が持つ独特の雰囲気、つまり生の真と偽の区別がつかない、あるいは見分ける感覚自体を持っていないため、それらしいもので十分なのでしょう。

 生きた植物の魅力を伝えることをせず、流れに任せて容認し、園芸の使命をしっかり考えないまま今日に至ってしまったのは、他でもなく私たち、育種・生産・販売する側、あるいは強い影響力を持つ出版・メディアなど、園芸に関わるすべての人たちの責任であることに違いはありません。

 このような状況の中で園芸とその対象となる植物が本来の価値を取り戻し、その重要性を関係者が再認識し、それを一般の人たちに広めることができるのであれば、園芸は発展するであろうと考えています。  「生きた植物を育てることから多くのことを学ぶ」、それが園芸の本質だと私は思います。


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