牧野富太郎博士に憧れて

私がまだ小学校2年生の頃のことです。国語の授業で、牧野富太郎という植物博士について習いました。博士は小学校しか行っていないにも関わらず、植物に関する知識が豊富で、数多くの新種を発見し、自分で名前をつけた植物がたくさんあるということでした。この話をきいた私は、子供ながらに自分も野山を歩きまわって新種の植物をみつけたいと強く心に思いました。さらに、この思いを増幅させたのは私の母親でした。母が言うには、自分の中学(世田谷区梅ヶ丘中学)時代の恩師である川村先生は、牧野富太郎博士の一番弟子で、植物のことは何でも知っていたというのです。真相はわかりませんが、今でも母はそう話しています。 それからというもの、私の夏休みの自由研究は毎年きまって野草の押し花でした。今でも、牧野博士の植物図鑑を手にして野山を駆け回っていた自分を思うと懐かしく思います。

ちょうど小学校4年生の時のことです。シノザキという名前の理科の先生は植物にとても詳しく、何をきいても全て名前を教えてくれる先生でした。私はこのころシダ類や野生の蘭に興味を持ちはじめました。 暖かい春のある日のことです。仲間たちと近くの小川に小ブナ捕りに出かけた帰り道に田んぼの土手に大きな葉っぱをつけたなにやら蘭のような草がたくさん生えているのをみつけました。見た瞬間にすぐにそれが蘭だとわかりました。数本を持ち帰り植物図鑑で調べ、翌日サイハイランではないかとシノザキ先生のところへ持っていくと、先生は、これはサイハイランではなく「エビネ」という蘭でいろいろな花色があると教えてくれました。 これをきっかけにして私は以前から探し歩き続けてきた食虫植物だけでなく、野生ランも探して歩くようになりました。それは千葉市内だけに」はとどまらず、茂原市、東金市や、遠くは安房郡の清澄までも電車を乗り継ぎたびたび出かけました。中学生になると、さらに行動範囲は広がり、自転車で真夜中に自宅を出発、片道5~6時間かけて富津岬や養老渓谷、遠くは清澄山等へも出掛けました。新種や珍しい植物をみつけたいという思いは高校へと続き、農大へ入るとこの思いは爆発し、野生のランを探すため命がけで日本中を歩き回る大冒険につながるのでした。

命がけでジャングルを歩き回る若きプラントハンターたちの存在は前川先生だけではなく他の多くの植物学者の間では有名となり、何人もの学者達から入会を希望されたり、協力を依頼されたりしたことを憶えています。その頃の新種、新産、再発見などの功績の数々は、今でも伝説として語り継がれています。当時の冒険記は「コラム:野生のランに魅せられて」をご覧ください。


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